川端実(1911-2001)
画家、川端実の作品は歴史の弁護を要することなく輝ける。
日本画家の川端玉章を父に持つ川端実は、同窓の岡本太郎と比べると知名度はかなり劣る。彼をまとめた画集はない。
知名度が低い理由としては、戦前の作品は戦中殆ど焼けてしまい全く残っていないこと、本格的に花開いたのは日本ではなく国外、NYであったために作品が散逸していること、コマーシャルアートに着手しなかったこと、あるいはゲージュツカらしいキバツなエピソードが少ない、そんなところだと思う。
1958年の渡米後広いアトリエを手に入れた彼は、ポロックやゴーキー、ロスコ、ニューマンといった今日名高い多くの画家を輩出した、ベティ・パーソンズ画廊と契約を結び、ニューヨーク・スクールの一員として大いに名を馳せたという。
説明、面倒くさいな…(すみません)。今回もリンクを張ります。大塚美術さんが紹介ページを用意してくださっている。
http://www.otsuka-art.com/kawabata/
私が彼を知ったのは、横須賀美術館で2011年に開催された没後100年展だった。ウェブサイトを見てこれは!と直感に誘われて足を運んだのだが、大正解で、唯一無二の素晴らしい作品群と出会えた。
抽象画(この言葉、本当は好きではないのだけれど、利便性には勝てない)なんて、自分でも描けるんじゃないか、とそういうことを言う人がいる。そういう作品にある日値段が付くことがあるかもしれない。けれど自分はそれは虚飾の価値だとしか思わない。
文字に例えればわかりやすいだろうか。文字は幼少から大人まで、誰しもずーっと書き続ける。平仮名などはひどく単純な造形で、「誰でも書ける」わけだが、字のうまい下手は明確に存在している。(ちょっと違うか…?)
たとえ一見無造作に描かれているかのような抽象画でも、そこには間違いなく色彩や造形、何を足して何を引くかといった微妙なさじ加減といったセンスがひしめき合う。それをカンディンスキーは内的必然性と称した。
(加納光於のリトグラフは偶発性を狙っているけれど、「狙う」という行為が存在しているし、彼は偶発性を引き出すために凄く緻密な計画も練っている。衝動と偶然をたたきつけたような荒々しい作品でさえも、偶然の取捨選択や、偶然への期待が存在するわけで、それはただの知性なき蛮行とは異なるはずだ)
(私は、生意気にも勝手に内的必然のことを、造形言語と呼んでいる。よい作品は、造形言語上の美しい文体を有する。批評家による解説や、ときに作家たちが「-ティズム」「-主義」と語るときは、その造形言語の翻訳だと思う)
彼の色彩感覚や、滲み、かすれ、垂らしといった画肌はどこか日本的だ。アクリル絵の具を好んで多用しているが、色の透明感や静けさからは、日本庭園の水面のようなゆらぎを感じる。それは、彼が日本画の家系に生まれついたことと無関係ではないだろう。
書の技法を取り入れたこともある、と図録の解説にある。
幾何学的形態を用いていても、輪郭線や塗りがクキっとしていないためか、冷たさはない。やわらかくてどこか包まれるような質感が、視覚に覆いかぶさる。あぁこれは凄く心地が良い。
彼の作品は静かな内省が織り上げた反物だ。
最後に、画家・近藤竜男氏の展覧会に寄せたエッセイの言葉を紹介して、この記事を閉じる。
「横須賀美術館では、岡本太郎とはきわめて対照的な「生誕100年 川端実展 東京―ニューヨーク」が4月23日から開催される。川端実は約40年に渡るニューヨークでの作家生活を通じて、決して「絵画」から逸脱することなく、自らの直観を信じ、東洋人としてのアイデンティティをもとめて描き続けることによって自己を確立した。それは「爆発」とはことなる絶えることなく持続する燃焼であった。」(図録p.22)