素人によるプロコフィエフ入門

興が乗っているのでプロコフィエフの話をする。

予防線を張ると、自分は音楽について専門的に学んだことはない素人です。クラシック系の演奏会には時々足を運んでいますが、好きな作曲家・好きな楽曲以外への興味が乏しいため、知識がひどく偏っています。専門家や詳しい人が読んだら頭痛がするようなアタタな話かもしれないこと、ご容赦ください。

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プロコフィエフは1891年生まれ、1953年没のソヴィエトロシアを代表する作曲家である。交響曲は7曲、ピアノ協奏曲は5曲(6曲目は未完)、その他バレエオペラ等多数の音楽作品を世に落とした。まぁ、この辺の詳細はwikipediaに任せます。

人間性といったところでは、大変な自信家で、高慢だったとされる。日記からもその様子はうかがえる。これは私見だが、音楽からもそういった彼の人間性は表れていると思う。彼の音楽はあくまで彼の自信の基に自立する。彼の自信が続く限り、その内側の音はどこまでも自由に輝けると言うか。

一方で、恐らく苦悶には弱い。実力もあるのでかなり常軌を逸したところまで起立していられるけれど、うっかり膝が折れたら、二度と立ち上がれなくなりそう。彼の最後の交響曲、7番はそういう曲だと思う。(一方ショスタコは常に苦しんでいるから、結構粘り強い)

そんな作曲家プロコフィエフ、たとえ名前は知らずとも、このあたりの曲は聴いたことのある人も多いのでは。

○交響的物語「ピーターと狼」(弦の音がいい…)

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 ○ロメオとジュリエット「騎士たちの踊り」

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 ○ピアノ協奏曲3番

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続いて彼の作曲傾向について。

ピアニストでもあったプロコフィエフは、「ピアノは構造的には打楽器」という理屈のもと、かなりハチャメチャな曲を作る 。ハーモニーや響きというより、音同士を対照させて、リズムで押していく感じ。超絶技巧の持ち主であったのをよいことに、難曲を量産。

オーケストラ曲も、ピアノの理屈で作曲するので、演奏者泣かせらしい。私が過去に生で聴いたプロコのオケ演奏で、しっくりきたと感じられれたものは、一度しかない。

プロコのこの曲をラジオで聴いたとき、若かりしバーンスタインは笑い転げたそうな。

交響曲1番「古典交響曲」(当のバーンスタインで)

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古典的、と言いながら変拍子が入ってくる。今の自分たちの世代はヘンテコな音楽もある程度耳にしてきているから驚きの程度が薄まってしまうかもしれないが、100年前の時代に、前衛と古典が明確に対立していたであろう時代に、こんな音楽が聴こえてきら、さぞ愉快だったろうと思う。ちなみにこの3楽章のガボットは自ら大層お気に召したようで、ピアノ楽曲にもアレンジされ、本人演奏の録音も残っている。

自分にとってプロコフィエフの面白さは、何より、標題音楽さえ純粋音楽にできてしまう奔放だと思っている。

ショスタコーヴィチとは対照的。ショスタコーヴィチ諧謔的で皮肉屋だが、根は真面目な堅物だったのだと思う。一方プロコはどこまでも自由闊達話を聞かないワルガキ。

標題音楽と純粋音楽の違いをずばり説明する技量は私にはないのだけれど、何かのストーリーを補完する音楽、あるいはテーマに沿って書かれたもの、楽曲としての目的が明確なものが標題音楽。これに対し、テーマに縛られず自由な表現を達成しているものが純粋音楽。だと思う。(専門家に言わせると違うかもしれないすいません)

自分がこれは標題的だなぁと感じるものは、楽曲が提示する輪郭線が明瞭である。一方、純粋音楽は、楽曲としてのスジや骨組みがハッキリしているか否かを問わず、輪郭線が曖昧だったり、破綻している。プロコの場合は、「破綻 」。バレエやオペラも多数残しており、没になった作品を交響曲としてアレンジすることも多い彼の作品は、骨格はしっかりしているのに、枝葉の振れ幅が大きく、輪郭の捉えようがない。これがものすごく爽快で、何度聴いても冒険し甲斐があって、面白い。

そしてかつ文学性も帯びており、「理知的なモーツァルト」だと心中勝手に呼称している。間違いなく天才型なのだが(したがって、プロコの系譜という音楽家は浮かばない。技術的に音楽史に足跡を残した人ではない気がする)、楽曲には理知的な緻密さもある。彼自身が若かりしころ文筆活動に挑戦したこととも関係していると思う。若きプロコフィエフは、ハッキリと「自分には文学者としての才能がある」と述べている「プロコフィエフ短編集」)。

加えて、音色の鮮やかさと洒脱さ。プロコからは、画家カンディンスキーと同じ景色が見える。カンディンスキーが好きな人は絶対プロコフィエフも好きだと思う。

ロシア的な極彩色と、西洋の洗練が同居している。抜群のバランス感覚に陶酔するしかない。

そのプロコフィエフのバランスの良さが如何なく発揮されているのが、こちら。

交響曲5番

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二楽章とか、凄くおしゃれ。

(余談だが、指揮者ラザレフ氏いわく、作曲家にとって「5番」と「9番」は避けて通りたい番号らしい。いうまでもなく、ベートーベンの5番・9番が念頭にある。スターリンも相当この番号には執心していたらしい。ショスタコは9番では捨て身のように噛みついてしまい、指揮者ムラヴィンスキーが必死でフォローしたという逸話があるのだけれど、これはまた別の話で)

例外的なのが1952年の7番「青春」で、これは何というか…あぁ、スターリン体制はこの才能をこれほどまでに窶してしまった。晩年様式という説明で解決するかもしれないけれど、それだけにしたくない。あまりに悲しい。6番(仕掛けが多くひも解く愉しさに満ちた、グロテスクながら素晴らしい楽曲)は1947年の初演こそ成功したものの、翌年のジダーノフ批判の対象となる。彼の苦悩には、ただ批判される・理解されないということだけでなく、ソヴィエトにかつて抱いた期待が「崩壊したこと」による失望、自らの病や友人の死、前妻の投獄、息子たちからの糾弾も背景にあったと思う。あまりにもいろんな不遇に圧されてしまった。7番は華々しい青春の真っ盛りではなく、場末の酒場で安酒におぼれながら、輝かしい青春を回顧しているかのよう。1番と一緒に収録されているCDが多いだけに、なお胸が詰まされる。

最後に、私が最も愛する彼の楽曲を2つ紹介する。

○ピアノ協奏曲1番

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冒頭からの高揚感。学生時代に作曲し、卒業試験で用いるという豪胆ぶり。この音楽の色彩と香り、とにかくまばゆい。

交響曲3番 ※出だしからかなり不協和音がどぎついので視聴注意

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出だしはつんざくような不協和音なのだが、不思議と神秘的。没になったオペラ「炎の天使」(※作品としては一度成立しており、1993年の復刻がyoutubeにある…嘘でしょ凄い)を交響曲としてに作り替えたもの。生で聴いたことはない。果たして日本国内で生演奏を聴く日は来るだろうか…

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最後に、その昔ペルーに訪れた際、宿泊施設のエレベータで、ロシアの楽団員(ヴァイオリニスト)と話をした時のことを少し。その方はムラヴィンスキーとも共に仕事をしたことがあると言っていた。

私が「プロコとショスタコ凄く好きなんです!」と興奮気味に話したら、「あなたはクラシックではなくコンテンポラリー音楽が好きなのね」と言われた。日本ではオーケストラ形式だとまずは「クラシック」に放り込まれると思う(プロコなら、クラシックカテゴリーの近代音楽。しかし考えてみればおかしな表現だ)。彼女が演奏者だからそう区別しただけかもしれないが、もしかしたらクラシックとコンテンポラリーの意味するところも、日本と外国では違うのかもしれないなぁなんて、ずっと少し、積極的に解決しようとは思わない程度に、頭の片隅で引っかかっている。