マッスルメモリー

1か月前はトレーニング後数日間、立ったり座ったりが辛くなるほどの強烈な筋肉痛に見舞われていたのが、この2週間くらいぱったりなくなった。

早くも体力が付いたのか、運動負荷が足りないのか。

 

もっと頑張ろう!と気合を入れてスタジオに入ってみるが、この2週間、動きが特別よくなっているわけではない。と気付いてしまった。

脚が全く動かないとか、腕立てで硬直することはなくなったけれど、踏み込みを深くしようとするとかなりしんどい。

ジャンピングスクワットなんて名ばかりで、後半になると、とにかく飛ぶのがやっと。

 

持久力よりも先に筋疲労に負ける。そのくらいには追い込んでいる。なのに、最初期の強烈な筋肉痛はやってこない。少し痛いかな程度。

リズム感がなくて動けてないだけ?

それでも、運動中は、しっかり手脚から悲鳴が上がっているじゃないか。

 

調べてみると、筋トレの成果が出るのは、大体3か月後くらいらしい。

 

じゃあ初期のあの筋肉痛は何だったのか。なるほど、これがマッスルメモリーと言うやつ。

格闘技をやっていた頃の筋肉量や動きを体が覚えていて、そのころの筋肉量には割とすぐ戻るけれど、そこから先はゼロスタートだから、身に着くまでに時間がかかるという事か。

 

最初一気に体力が付いた気がして、この調子ならすぐ楽になるのではと高をくくっていた。ここから先はきっと長い。

 

3か月後の成果を信じましょう。

トレーニング1か月目

今月からジムに入った。

登山のための体力作りが目的だったが、ドカンとカロリーを消費するのが癖になってしまったのか、2日1度(できれば毎日)通わないと落ち着かない。

 

Lesmillsという、ニュージーランドのフィットネス企業が提供するスタジオプログラムを中心にやっている。

 

どのくらいの頻度で参加したらどういう効果が出ただとか、きついとか割と初心者でも大丈夫とか、そういう1ユーザー目線での感想があまり出てこない。PR記事ばっかり。

 

なので、記録も兼て記事に残す。

 

(前提)

山から生還できる体を作って、今より健康になって、適当にストレス発散したいだけだから、あまり食事制限とか考えてない。

今は週4ペースで通っているが、他の趣味がかなり疎かになってきているので、ある程度プログラムに慣れて体ができてきたら、通うペースを落とすつもりでいる。

でも、ヤミツキなって案外そのままかも。

気楽に記録を付けるだけだから、あまり真面目に推敲もしない。

 

もともと格闘技をかれこれ7年くらいやっていて、気まぐれにランニングや筋トレをする習慣があり、この1年くらいはたまに登山もしている。

不器用でリズム感が無く体育の成績はおいっちにーの日陰属だけれど、体質的に筋力と持久力は付きやすいのだと思う。

ギリギリ標準と言えなくもないけどだらしない体型。

 

************************

◆主な参加プログラム

【Lesmills】

ボディコンバット(週2~3)

ボディステップ(週1~2)

ボディアタック(週0~1)

ボディパンプ(週0~1)

【その他】

・ヨガ(週1)

・その他マシントレーニング(脚力&有酸素中心)(週0~1)

 

◆トレーニング頻度

週3~4日

平日は1~2プログラム

土日は2~3プログラム +マシン

 

◆体感

1週目:1コマやるぐらいでボロボロ、酷い筋肉痛

2週目:2コマどうにかやりきれる

3~4週目:変な動きをしてしまうのは相変わらずだが、身体的疲労度で言うと、

     2コマだとちょっと物足りない。しかしこれ以上やるのもな…と迷っている。

 

◆体の変化

ズボンやウエストは少し緩くなったが、体重は3キロ増えた。3キロ。

川端実(1911-2001)

画家、川端実の作品は歴史の弁護を要することなく輝ける。

日本画家の川端玉章を父に持つ川端実は、同窓の岡本太郎と比べると知名度はかなり劣る。彼をまとめた画集はない。

知名度が低い理由としては、戦前の作品は戦中殆ど焼けてしまい全く残っていないこと、本格的に花開いたのは日本ではなく国外、NYであったために作品が散逸していること、コマーシャルアートに着手しなかったこと、あるいはゲージュツカらしいキバツなエピソードが少ない、そんなところだと思う。

1958年の渡米後広いアトリエを手に入れた彼は、ポロックやゴーキー、ロスコ、ニューマンといった今日名高い多くの画家を輩出した、ベティ・パーソンズ画廊と契約を結び、ニューヨーク・スクールの一員として大いに名を馳せたという。

説明、面倒くさいな…(すみません)。今回もリンクを張ります。大塚美術さんが紹介ページを用意してくださっている。

http://www.otsuka-art.com/kawabata/

私が彼を知ったのは、横須賀美術館で2011年に開催された没後100年展だった。ウェブサイトを見てこれは!と直感に誘われて足を運んだのだが、大正解で、唯一無二の素晴らしい作品群と出会えた。

 

f:id:mtsah:20200501184318p:plain

2011年横須賀美術館 川端実展の図録

抽象画(この言葉、本当は好きではないのだけれど、利便性には勝てない)なんて、自分でも描けるんじゃないか、とそういうことを言う人がいる。そういう作品にある日値段が付くことがあるかもしれない。けれど自分はそれは虚飾の価値だとしか思わない。

文字に例えればわかりやすいだろうか。文字は幼少から大人まで、誰しもずーっと書き続ける。平仮名などはひどく単純な造形で、「誰でも書ける」わけだが、字のうまい下手は明確に存在している。(ちょっと違うか…?)

たとえ一見無造作に描かれているかのような抽象画でも、そこには間違いなく色彩や造形、何を足して何を引くかといった微妙なさじ加減といったセンスがひしめき合う。それをカンディンスキーは内的必然性と称した。

加納光於リトグラフは偶発性を狙っているけれど、「狙う」という行為が存在しているし、彼は偶発性を引き出すために凄く緻密な計画も練っている。衝動と偶然をたたきつけたような荒々しい作品でさえも、偶然の取捨選択や、偶然への期待が存在するわけで、それはただの知性なき蛮行とは異なるはずだ)

(私は、生意気にも勝手に内的必然のことを、造形言語と呼んでいる。よい作品は、造形言語上の美しい文体を有する。批評家による解説や、ときに作家たちが「-ティズム」「-主義」と語るときは、その造形言語の翻訳だと思う)

彼の色彩感覚や、滲み、かすれ、垂らしといった画肌はどこか日本的だ。アクリル絵の具を好んで多用しているが、色の透明感や静けさからは、日本庭園の水面のようなゆらぎを感じる。それは、彼が日本画の家系に生まれついたことと無関係ではないだろう。

書の技法を取り入れたこともある、と図録の解説にある。

幾何学的形態を用いていても、輪郭線や塗りがクキっとしていないためか、冷たさはない。やわらかくてどこか包まれるような質感が、視覚に覆いかぶさる。あぁこれは凄く心地が良い。

彼の作品は静かな内省が織り上げた反物だ。

 

最後に、画家・近藤竜男氏の展覧会に寄せたエッセイの言葉を紹介して、この記事を閉じる。

横須賀美術館では、岡本太郎とはきわめて対照的な「生誕100年 川端実展 東京―ニューヨーク」が4月23日から開催される。川端実は約40年に渡るニューヨークでの作家生活を通じて、決して「絵画」から逸脱することなく、自らの直観を信じ、東洋人としてのアイデンティティをもとめて描き続けることによって自己を確立した。それは「爆発」とはことなる絶えることなく持続する燃焼であった。」(図録p.22)

素人によるプロコフィエフ入門

興が乗っているのでプロコフィエフの話をする。

予防線を張ると、自分は音楽について専門的に学んだことはない素人です。クラシック系の演奏会には時々足を運んでいますが、好きな作曲家・好きな楽曲以外への興味が乏しいため、知識がひどく偏っています。専門家や詳しい人が読んだら頭痛がするようなアタタな話かもしれないこと、ご容赦ください。

------------------------------------------

プロコフィエフは1891年生まれ、1953年没のソヴィエトロシアを代表する作曲家である。交響曲は7曲、ピアノ協奏曲は5曲(6曲目は未完)、その他バレエオペラ等多数の音楽作品を世に落とした。まぁ、この辺の詳細はwikipediaに任せます。

人間性といったところでは、大変な自信家で、高慢だったとされる。日記からもその様子はうかがえる。これは私見だが、音楽からもそういった彼の人間性は表れていると思う。彼の音楽はあくまで彼の自信の基に自立する。彼の自信が続く限り、その内側の音はどこまでも自由に輝けると言うか。

一方で、恐らく苦悶には弱い。実力もあるのでかなり常軌を逸したところまで起立していられるけれど、うっかり膝が折れたら、二度と立ち上がれなくなりそう。彼の最後の交響曲、7番はそういう曲だと思う。(一方ショスタコは常に苦しんでいるから、結構粘り強い)

そんな作曲家プロコフィエフ、たとえ名前は知らずとも、このあたりの曲は聴いたことのある人も多いのでは。

○交響的物語「ピーターと狼」(弦の音がいい…)

www.youtube.com

 ○ロメオとジュリエット「騎士たちの踊り」

www.youtube.com

 ○ピアノ協奏曲3番

www.youtube.com

 

続いて彼の作曲傾向について。

ピアニストでもあったプロコフィエフは、「ピアノは構造的には打楽器」という理屈のもと、かなりハチャメチャな曲を作る 。ハーモニーや響きというより、音同士を対照させて、リズムで押していく感じ。超絶技巧の持ち主であったのをよいことに、難曲を量産。

オーケストラ曲も、ピアノの理屈で作曲するので、演奏者泣かせらしい。私が過去に生で聴いたプロコのオケ演奏で、しっくりきたと感じられれたものは、一度しかない。

プロコのこの曲をラジオで聴いたとき、若かりしバーンスタインは笑い転げたそうな。

交響曲1番「古典交響曲」(当のバーンスタインで)

www.youtube.com

古典的、と言いながら変拍子が入ってくる。今の自分たちの世代はヘンテコな音楽もある程度耳にしてきているから驚きの程度が薄まってしまうかもしれないが、100年前の時代に、前衛と古典が明確に対立していたであろう時代に、こんな音楽が聴こえてきら、さぞ愉快だったろうと思う。ちなみにこの3楽章のガボットは自ら大層お気に召したようで、ピアノ楽曲にもアレンジされ、本人演奏の録音も残っている。

自分にとってプロコフィエフの面白さは、何より、標題音楽さえ純粋音楽にできてしまう奔放だと思っている。

ショスタコーヴィチとは対照的。ショスタコーヴィチ諧謔的で皮肉屋だが、根は真面目な堅物だったのだと思う。一方プロコはどこまでも自由闊達話を聞かないワルガキ。

標題音楽と純粋音楽の違いをずばり説明する技量は私にはないのだけれど、何かのストーリーを補完する音楽、あるいはテーマに沿って書かれたもの、楽曲としての目的が明確なものが標題音楽。これに対し、テーマに縛られず自由な表現を達成しているものが純粋音楽。だと思う。(専門家に言わせると違うかもしれないすいません)

自分がこれは標題的だなぁと感じるものは、楽曲が提示する輪郭線が明瞭である。一方、純粋音楽は、楽曲としてのスジや骨組みがハッキリしているか否かを問わず、輪郭線が曖昧だったり、破綻している。プロコの場合は、「破綻 」。バレエやオペラも多数残しており、没になった作品を交響曲としてアレンジすることも多い彼の作品は、骨格はしっかりしているのに、枝葉の振れ幅が大きく、輪郭の捉えようがない。これがものすごく爽快で、何度聴いても冒険し甲斐があって、面白い。

そしてかつ文学性も帯びており、「理知的なモーツァルト」だと心中勝手に呼称している。間違いなく天才型なのだが(したがって、プロコの系譜という音楽家は浮かばない。技術的に音楽史に足跡を残した人ではない気がする)、楽曲には理知的な緻密さもある。彼自身が若かりしころ文筆活動に挑戦したこととも関係していると思う。若きプロコフィエフは、ハッキリと「自分には文学者としての才能がある」と述べている「プロコフィエフ短編集」)。

加えて、音色の鮮やかさと洒脱さ。プロコからは、画家カンディンスキーと同じ景色が見える。カンディンスキーが好きな人は絶対プロコフィエフも好きだと思う。

ロシア的な極彩色と、西洋の洗練が同居している。抜群のバランス感覚に陶酔するしかない。

そのプロコフィエフのバランスの良さが如何なく発揮されているのが、こちら。

交響曲5番

www.youtube.com

二楽章とか、凄くおしゃれ。

(余談だが、指揮者ラザレフ氏いわく、作曲家にとって「5番」と「9番」は避けて通りたい番号らしい。いうまでもなく、ベートーベンの5番・9番が念頭にある。スターリンも相当この番号には執心していたらしい。ショスタコは9番では捨て身のように噛みついてしまい、指揮者ムラヴィンスキーが必死でフォローしたという逸話があるのだけれど、これはまた別の話で)

例外的なのが1952年の7番「青春」で、これは何というか…あぁ、スターリン体制はこの才能をこれほどまでに窶してしまった。晩年様式という説明で解決するかもしれないけれど、それだけにしたくない。あまりに悲しい。6番(仕掛けが多くひも解く愉しさに満ちた、グロテスクながら素晴らしい楽曲)は1947年の初演こそ成功したものの、翌年のジダーノフ批判の対象となる。彼の苦悩には、ただ批判される・理解されないということだけでなく、ソヴィエトにかつて抱いた期待が「崩壊したこと」による失望、自らの病や友人の死、前妻の投獄、息子たちからの糾弾も背景にあったと思う。あまりにもいろんな不遇に圧されてしまった。7番は華々しい青春の真っ盛りではなく、場末の酒場で安酒におぼれながら、輝かしい青春を回顧しているかのよう。1番と一緒に収録されているCDが多いだけに、なお胸が詰まされる。

最後に、私が最も愛する彼の楽曲を2つ紹介する。

○ピアノ協奏曲1番

www.youtube.com

冒頭からの高揚感。学生時代に作曲し、卒業試験で用いるという豪胆ぶり。この音楽の色彩と香り、とにかくまばゆい。

交響曲3番 ※出だしからかなり不協和音がどぎついので視聴注意

www.youtube.com

出だしはつんざくような不協和音なのだが、不思議と神秘的。没になったオペラ「炎の天使」(※作品としては一度成立しており、1993年の復刻がyoutubeにある…嘘でしょ凄い)を交響曲としてに作り替えたもの。生で聴いたことはない。果たして日本国内で生演奏を聴く日は来るだろうか…

--------------------------------

最後に、その昔ペルーに訪れた際、宿泊施設のエレベータで、ロシアの楽団員(ヴァイオリニスト)と話をした時のことを少し。その方はムラヴィンスキーとも共に仕事をしたことがあると言っていた。

私が「プロコとショスタコ凄く好きなんです!」と興奮気味に話したら、「あなたはクラシックではなくコンテンポラリー音楽が好きなのね」と言われた。日本ではオーケストラ形式だとまずは「クラシック」に放り込まれると思う(プロコなら、クラシックカテゴリーの近代音楽。しかし考えてみればおかしな表現だ)。彼女が演奏者だからそう区別しただけかもしれないが、もしかしたらクラシックとコンテンポラリーの意味するところも、日本と外国では違うのかもしれないなぁなんて、ずっと少し、積極的に解決しようとは思わない程度に、頭の片隅で引っかかっている。

Dear Evan Hansen

昨夏のNY旅行は、ほとんどミュージカル目当ての旅だった。

Wicked、the Book of Mormon、Chicago、the Phantom of the Opera、そしてDear Evan Hansen(以下DEH)。

DEHには話題作だからおまけ程度のつもりだった。英語が格別得意でもないので、内容を理解できるかがまず怪しい。この手のテーマをミュージカルにする必然性もわからない。

 

だがしかし連日立ち見が出る演目にはちゃんと理由がある。奇しくも最後に観た演目でよかった。ミュージカルってこんな作品も作れるんだな。

 

■あらすじ(導入のみ)

主人公エヴァンは母子家庭で対人恐怖症の男子高校生。友人と呼べる人間関係はない。母は昼間は働き、夜間学校に通っている(収入を上げるため)。エヴァンと母の関係はぎすぎすしていて、お互いどうにかしたいと思っているのに、どうにもかみ合わない。エヴァンは最近木登り中に落下して、左手ギプス生活。

エヴァンたちとは対照的な家庭として、マーフィー家が出てくる。息子のコナーはドラッグ中毒。両親は喧嘩ばかりで、妹ゾーイはそんな家族にうんざりと冷めている。コナーはエヴァンと同学年で、ゾーイも同じ高校に通っている。

問題児コナーもエヴァン同様、友達がいない。二人は顔見知り程度の関係。エヴァンはゾーイに片思いをしている。

エヴァンは心療内科で治療を受けていて、「自分で自分に手紙を書く」という課題を与えられている。割と赤裸々な手紙で、ゾーイに恋をしているという内容も盛り込まれている。この手紙が、たまたまコナーに見つかってしまう。コナーは衝動的な少年で、自分の妹に惚れている同学年生に激高し、手紙を持ち去る。そして、コナーはエヴァンの手紙を所有したまま、自殺する。

コナーが所有していた“Dear Evan Hansen”で始まる手紙を、マーフィー夫妻はコナーがエヴァンに向けて書いたものだと勘違いする。コナーに親友がいたことに、マーフィー夫妻は歓喜し、コナーの話を聞かせてほしいと懇願される。エヴァンは誤解を解こうとするが、いかんせん口下手で弱気。夫妻に押し負けて、親友だったフリをしてしまう…

 

ネタバレしていいものかわからないので、導入までで。ただ英語に自信がある人以外は、なるべく全部ストーリーを頭に入れてから観たほうがいいと思います。曲に沿ってストーリーを解説してくれているサイトもあるので、探してみてください。

 

■舞台が日常に延びてくる

多くのミュージカルの醍醐味は踊りだとか、歌だとか、派手な衣装だとか、舞台装置だとか、そいういう非日常性だったりするのに、このミュージカルの見どころはそういうところじゃない。

現代の普通の高校生たちが主人公なので、衣装は普段着。舞台装置も派手さはない。背景はSNSの画面を模したモニター。どれも日常の小道具と既視感がある。

youtu.be

だからなのか、観終わってからも、ずっと舞台が続いている感覚がある。人と話すとき、通勤途中に修学旅行生の集団を見かけるとき、この舞台の登場人物が浮かんでくる。

 

■音楽

ミュージカルにする必然性はないと思っていたけれど、音楽がなかったら、この作品はこれだけ観られることはなかっただろう。

理由はずばり、黙々と鑑賞することにはしんどい。しんどいものを否定する気は全くないけれど、しんどいばかりでは苦しい。かと言って茶化すのは論外。コメディ化するわけではなく、観る人に届きやすくするための、ミュージカルという手法。この作品の楽曲は旋律が本当に美しい。苦しんでいいし、苦しめることは正常だ。

あと、DEHの楽曲は、技術的にはさほど難易度が高いわけではないので、観客がふとした時に口ずさめる。

 

■演技の良さ

Youtubeの公式動画はオリジナルキャストのBen Plattのものが多い。公式音源もBen。彼は凄く声が美しい…

ただ私が夏に観たときのエヴァンは、Andrew Barth Feldman(17)でした。

youtu.be

抜擢当初は16歳で、結構ニュースになったらしい。連日上演しているとは思えない緊張感…役者が泣けばつられて泣いてしまう。英語を聞きとれずとも、何が起こっているのかなんとなくわかる。Andrewだけではなく、カンパニー全員素晴らしいパフォーマンス。

あまりにも凄いから、僭越ながらティーン陣のメンタルは現在進行形で心配。はっぴっぴーな話じゃないし…あんなにのめりこんで大丈夫なものなのか。一度配役されたら、週8公演を数年にわたってこなさなきゃいけないのに(※)。

身体も良い。日常の動作、ちょっとした身のこなしに登場人物の性質が表れている。上に貼り付けたBen Plattの動画にも出ているように、関節のぎこちなさ、筋肉がこわばりに、エヴァンの緊張は滲む。改めて動画を鑑賞していると、右手首に特に不安が籠もっているような…胸が詰まる…

役者という人たちはこれでもかと言うほどの訓練で心身を統合させていて、生の身体の威勢を舞台に充満させることに長じた人たちなのに、エヴァンの演技は反対のことを要求している。それでいて嘘くささもない。Andrewのエヴァンもこのぎこちなさをよく表現していたと思う。

※1月から、主演はJordan Fisherに代わっている。そして、Andrewは体力を考慮し、2公演日のマチネには代役がいた。1年という短い期間だったけれど、Andrewは本当に素晴らしかった。ティーンが演じることの迫真性がある。役者業は過酷な世界だろうから、10代で大舞台の主演を経験することの弊害が、いずれ出てきてしまうかもしれないけれど…どうかポジティブに作用しますように。

 

-------------------------

嘘か本当か、Ben Plattで映画制作中だとか。

本当だったら凄く楽しみ。

 

映画Cats 復権のために

映画Catsは観るかどうかすごく迷った。20年前ブロードウェイで魅了されてから、ビデオで見続けCDを聴き続け。

当時NYの田舎町に住んでいたので、年に数回ミュージカルを観させてもらっていたのだけど、Catsは格別だっとた。子供向けとなると○ィズニーが主になるが、Catsとその他では音楽が別次元。多くのミュージカルにおいて音楽は演劇の装飾のような扱いなのに(それはそれで長所がある)、アンドリュー・ロイドーウェバー(以下ALW)の作品は、音楽が物語を進行させる。

彼の作品は音楽がないと成立しない。どこまでも音楽が主役。

あまりにも思い入れが強いので、評論家たちによる「後悔している」というコメントがショックで、映画は結構迷っていた。つまらないだけならまだしも、後悔は笑えない。

しかし推薦してくれた人がいたので、勇気を出して観てきた。

 

ええ、ほんと、素晴らしかった。

え、なんであんな悪しざまに叩かれなくてはいけないの?集団暴行では?

というわけで、前置きが長くなりましたが、原作をある程度知っていて、視聴を迷っている人たちの背中を押したく、舞台版との違いを踏まえつつ「見なきゃ後悔するぞ!」という感想文を垂れ流します。

この自粛ムードで映画館を推奨するってご時世的にどうなのかなと思わないでもないですが、推薦したいという気持ちは、別の問題なので、…迷っていないで公開初週に行けばよかったな。そしてさっさと感想文書けよ。

 

※下馬評とか無関係に観るつもり!という人は、私の駄文など読まずにまっさらな気持ちで映画館に行ってください。

 

なお、「いかがなものか」という演出がないわけではないけれど、そういう批判はすでに溢れ返っているので、自分はあえて触れません。

そして、この場で比較対象とする舞台版は、1980年代のオリジナルキャストの音源と、2000年頃のブロードウェイ演出です。その後のアップデートには疎いですし、四季版も観たことないです。ご容赦ください。

 

■踊り

舞台は2時間以上歌って踊らなくてはならない。役者はもちろん歌と踊り両立できる人になる。映画ではある程度その気遣いを捨てられる。

こんなに激しい踊りで歌い続けることは、舞台では恐らく無理では…。

猫っぽさを出すことにかなり注力してきていて、踊り自体もバレエ主体になっている。カメラワークが惜しい気もするけれど、バレエダンサーの身体に惚れ惚れする。

こんなに動くと思ってなかった。

 

■歌

映画だと、「囁くように歌う」ことが可能となる。歌い方に幅が出るので、猫ごとの個性も出しやすい。

コーラスパートで、曲ごとの主役猫の声が埋もれずにちゃんと聞こえてくるところもよかった。

 

■音楽

ALWご本人が監修しているので間違いない。最高の音。「耳が幸せ」。映画館で見る最大の利点は音響。音量のダイナミズムもよいし、どうしてもCGが嫌な人は目瞑っていても良いのでは。

全てオリジナルからの編曲が入っている。使っている楽器が変わっていたり、リズムの刻み方が変わっていたり。

現代風に垢抜けたと言えばいいのだろうか。オリジナルの音楽を古いと感じたことはなかったけれど、こうして新しいアレンジを聴くと目が覚める。映画版のCDも買ってしまいそう。

ここでこういうパーカッション入れるんだ、あ、テンポ揺れてる、うわ、えそう来る?くっっ、やばい、色っぽいなにこの音、うはっ、げほっ、そういう悶絶ポイントの砲火。原曲知っている人ほど陶酔すると思う。ALWはわるいひと…

あと、映画を見ていて気が付いたのだけど、Catsの音域って、オクターブの上げ下げすれば男性でも女性でも歌えるよう設定されている。凄いな…

 

■衣装とCG

さんざん罵倒されていたCGのキモチワルサについては、本国でのリリース後、修正が入ったらしい。ロードショー始まってからの異例の改良版配信。日本では改良版で上映されている。

だからなのか自分は気持ち悪さは一切感じなかった。衣装やメイクは完全に舞台と変えてきているけれど、舞台版のメイクや衣装を映画館の大スクリーンで見たいかと言われると正直微妙なので、これでいいと思う。

オリジナルのCGが気になる人は、You Tubeの初期の予告版を漁ると、これかな?というものが少し見られます。

 

■ストーリーと演出

Catsにストーリーを期待しても…エリオットの原作読めば何かわかるのかもしれないけど…ひたすらALWの天才的楽曲を浴び続けるMV集です。

というのは3割冗談として、舞台版ではできないキャラクターの掘り下げや脚色をやってきている。微妙な表情とか、猫同士の細かな関係とか。舞台版は自曲がない猫のことはあまりよくわからない。おそらくほぼ初期設定がない。映画版魔術猫氏、可愛すぎる…

ところでSkimbleshanksの演出は、このために映画化したのでは?というほど素晴らしい。ほかのレビューでも同じような感想がちらほら。私は号泣した。

舞台のパントマイム風Skimbleも大好きなので、Youtubeの公式動画張っておきます。

youtu.be

 

■安心感

ロングラン公演は役者にとってあこがれの舞台となる一方で、履歴書のための経歴になるというか…悪く言えば時々邪念のありそうな役者が混ざる。気のせいかもしれないけど。

あと、週に8公演もやるから、ちょっと緊張感がないかな?と感じられる日もある。ちょっと音程ずれてるなとか。キャッツは表現の幅が許されている作品だと思うので、がっかりリスクは低そうだけど…

そういうムラ含めて舞台の味なので一概にムラを悪いとは言わないけれど、映画だと大人の事情をクリアできれば最良の配役・最高のテイクを採用してくるので、安心して見られる。曲ごとに拍手が入る舞台版ではなかなか得られない緊張感もあって、新鮮だった。

 

■原作知ってる人ほど2回見ましょう

だらだら書き連ねてきましたが、最後に一つ。

Catsに限らず、原作知っている場合は、2回見ないと穏やかに鑑賞できないと思う。

1回目って間違い探しに徹しがちじゃないですか。私だけ?

あれ、このパート歌うのこの猫?この猫の年齢変えた?新曲邪魔じゃない?歌詞変わってる?ここはもっと声張るところではマンゴジェリーの曲慣れないなぁ云々。

繰り返しますがCatsに限らず、ハリーポッターでもレミゼでもオペラ座の怪人でも全部自分はそうなる。最初に接した表現のインパクトはあまりに大きく、別演出を受け入れるには予習が必要。

だから、一度目は「そういうものだな」と認識を得るための予習として、2回目が本番だという心構えで挑むとずっと好意的に鑑賞できると思う。時間も金もかかりますが。

今思えば、米国人がショックを受けたのは、CG問題はともかくみな舞台版に精通しすぎているためでは…。

-----------------------------------------

ここまでお読みいただきありがとうございました。映画版散々持ち上げましたが、もちろん舞台ならではの良さも存分にあります。

Cats聴きすぎて乗り物酔いみたいになっているかぼちゃでした。

(酔いながらまだまだ聴く)

20200209ユリシーズ読書会 Wandering Books 『望郷と海』『ある神経病者の手記』

2か月に一度開催されるユリシーズ読書会( https://www.stephens-workshop.com/)後の懇親会の場では、お題に沿って書籍を紹介する「Wandering Books」という企画がある。

2月9日のお題は「記憶や忘却」に類するもので、張り切って選書していたのに見事に持参を忘れた。とりあえず読みかけの本を出したけど(その行為自体が「忘却」というパフォーミングナントカげほっ)、やりきれないので、負け惜しみのように書いてみる。

 

石原吉郎『望郷と海』

学生時代、課題で読んだ書籍。

著者はシベリア抑留を経験した。帰国後、詩人として活動する。そのエッセイ集。

強制収容所ものというとフランクル『夜と霧』が著名だが、「収容所はアウシュヴィッツだけではなく」、もっと言うと、収容所を生む人間性は「特異現象ではない」と認識するためも、本書は読まれるべきだと思う。

収容された人を苛むものは物理的な加害者・支配者だけでなく、記憶と、未来で待ち受けていた期待ともなり得る。加害者が、たれであるかはあやうく、被害者もまた、いや、被害とか加害とかもしかしたらそういう作用の話ですらなく、あー…

この書籍については何をどう語ったらいいかわからないな…

活字として刻まれている文字情報も、このテキストの背後にあるものも、全て私の言語では触れようがない…しかし紹介したい…

ポーランドのあの収容所に対し、シベリア収容所はあまりに認知されてないのではないかと、自分の肌感覚程度の統計でしかないのだが、それでいいのかというモヤモヤした思いがあり、

いやそもそも固有名詞化された件の収容所も所在地をドイツだと誤認している人も自分の周囲では少なくないし、

いやいやそもそもそもそも例えば「学校」についての証言者を一人に代表させようとした場合、良心ある人ならば「一人に語らせることは不可能かつ危険である」とすぐに思い至るように、

「沈黙」こそが最良と知りつつ、沈黙を否定するのも文学。

 

②D.P.シューレーバー『シューレーバー回想録 ある神経病者の手記』

 平凡社ライブラリーで自分は読んだけれど、ほかにもいろいろ翻訳が出ているらしい。

フロイトラカン精神分析を知る上で避けて通れない一冊とのこと。

ただ、私は心理学は何もわからず、フロイトも一冊だけ読んだことがあるけれど精神分析に関する書籍ではなかったし、平凡社版裏表紙にある「真率きわまりない人間の記録として読んでも感銘は深い(略)今日いっそうわれわれの同時代人である」という読み方しかしていない。

平たく言ってしまえば、エリート家庭に生まれて成長期の抑圧やらなんやらで歪んてしまったけれど滅茶苦茶頭のいい人の妄想垂れ流し、である。

とにかく滅茶苦茶頭が良くて文章構成も表現力も申し分ないため、圧倒される。圧倒されるのだけど、妄想。妄想なのだけど、圧倒される。

当時の裁判記録なども付録されているため、彼の同時代における位置づけもなんとなく想像できる。

この書籍を知ってかれこれ10年経つが、いつ読み返しても、私の知性は敗北する。

このような記録さえ学問の礎にしてしまうフロイト凄い…!

と震えながら精神分析の本も買ったのに、絶賛積読。感動にも鮮度がある。